岡崎での開業と子どもたちとの日々

2009年7月、私は愛知県岡崎市で接骨院を任されることになりました。といっても、最初から完全な独立開業ではなく、勤めていた接骨院の分院という形でスタートしたのです。とはいえ、現場を任されたのは私ひとり。受付スタッフもいなければ、他に施術者もいない。患者さんの対応、施術、会計、掃除、電話対応まで、すべて自分の肩にかかっていました。孤独で不安もありましたが、「任されたからにはやるしかない」という覚悟で一日一日を過ごしました。

最初は思うように患者さんが増えず、暇な時間に「今日はもう誰も来ないのでは」と不安に押しつぶされそうになることもありました。そんなときは技術書を読み返したり、院の外に出て地域の人に顔を覚えてもらったり、できることを積み重ねていきました。それでも「このまま続けられるのか」という迷いは常に胸の奥にありました。

転機となったのは、地域のリトルリーグの選手たちをサポートするようになってからです。野球で肩や肘を痛めた子どもたちが来院し、その保護者とのつながりが広がっていきました。「子どもがお世話になったから」と親御さん自身が通ってくれることもあり、そこから紹介や口コミがどんどん広がりました。経営的に少しずつ安定してきたのは、このリトルリーグをきっかけにしてからでした。

さらに大きな特徴は、岡崎時代は特に中学生の来院が多かったことです。岡崎市はバレーボールをはじめ、バスケットボールや駅伝などが盛んな地域で、部活動をしている子どもたちにとってケガや痛みは避けられません。口コミで評判が広がり、気づけば院は学生たちで賑わうようになっていました。

当時は健康保険を使っていたこともあり、子どもたちにとっても通いやすかったのだと思います。院は次第に「治療の場」であると同時に、子どもたちにとっての「溜まり場」のような空間にもなっていきました。待合室で宿題をする子もいれば、混雑して座れないときには私の机に教科書やノートを広げる子もいました。夕方になると部活帰りの学生が一斉にやってきて、施術の合間に「先生、ここが痛いんだよ」「明日の試合に間に合うかな」と相談を受けながら、同時に宿題をしている子たちの様子も見守る――そんな日常が当たり前になっていきました。

診ていた症状は、捻挫、野球肘、オスグッドなどスポーツに直結するものが中心でした。特にオスグッドは難しく、なかなか改善が見られないことも多く、当時の私を悩ませる存在でした。「もっと良くしてあげたいのに」と葛藤する日々。この経験がのちに「ゆらし療法」を学ぶ大きなきっかけとなったのです。

それでも子どもたちの元気さや素直さには救われました。施術を終えて「楽になった!」「また部活に行ける!」と笑顔で帰っていく姿は、自分のやっていることに確かな意味があると実感させてくれました。保護者の方から「先生のおかげで試合に間に合いました」と言っていただけるたび、忙しさや疲れも吹き飛ぶようでした。

こうして岡崎での7年間は、技術を磨きながら地域に根ざしていく時期となりました。特に「子どもたちの成長を支える」という形で地域と関わることができたのは、私にとって大きな財産です。彼らにとって私は治療者であると同時に、時には話し相手であり、時には勉強を見守る存在でもありました。接骨院という場が持つ可能性を、ここで改めて感じることができたのです。

そして5年後、院の経営権を正式に譲り受けることになりました。分院として任されていた接骨院が、名実ともに「自分の院」となった瞬間です。ずっと一人でやってきたからこそ、経営者としての責任を背負う覚悟も自然と芽生えていました。岡崎でのこの経験が、のちに母親の近くへ移転する大きな決断を下す土台になっていったのです。